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プロフィール

竹末 治生 
たけすえ はるお
一級建築士
宅地建物取引主任者
有限会社セル企画コンサルタント 代表取締役
空室対策研究会主宰・広島大家の会 代表
中国電力オーナーズクラブ専属アドバイザー


  昭和51年以前の人生は、挫折、挫折の繰り返しで紙面に書ききれません。
しかし、ようやく上向きになってきた時からスタートします。
昭和51年

大学で留年したにもかかわらず、4年生のとき学業に目覚め、卒業設計が日本建築学会賞に選ばれる。大学卒業後、本当は大学院に進みたかったが、親にこれ以上迷惑をかけるのは無理と判断し断念する。
時はオイルショック後の就職難。知人の紹介により、滑り込みでとある零細建築会社に就職する。
建築会社では、職人さんと一緒になって汗をかくことに徹し、建築の原点は現場にあることを知る。いつも体は傷だらけでしんどかったが、ものづくりの基本が現場を見ることだとわかっただけでも非常によい体験であった。
二級建築士を取得する。


昭和53年

   

25歳の時、夢である建築家を目指して建築会社を退職し、念願の都市計画・建築設計事務所へ就職する。
1年間は見習い期間(その時代、建築設計事務所は徒弟制度の慣習があった。)入所してすぐに徹夜、徹夜の連続で、ものづくりのハードさを知る。まだ20代なので、見るもの聞くものが新鮮であった。早く一人前になりたかった年代である。
この頃、一級建築士を取得する。
27歳のころ、リゾートホテルの現場監理の仕事があり、一年間ゼネコンと共にホテル建設に尽力し完工させる。この時、物を作り出来上がったときの達成感、満足感を体験する。
ああ〜 建築はすばらしい!
電気点灯試験のある夜、ホテルの照明を点灯したときの感動はいまだに忘れない。私が仕事で涙したのは、後にも先にもこのときだけだった。
まだまだ駆け出しの建築家であった。


昭和56年

設計事務所では自分のやりたいことができないという理由で、かねてからの独立の夢を実現させるため、友人とともに建築設計事務所を立ち上げる。
しかし、コネも人脈もないままスタートしているので仕事のないつらさを味わう。
挫折する・・・。
この頃から自分のこれからの人生について真剣に考えるようになる。
好きなことをやることと、貧乏することは常に対峙する。
20代の若造では無理があった。
設計事務所は2年で解散。
いろいろ悩んだが、建築家の夢はいつかまた実現できると割り切る。


昭和58年

建築は営業ができないと仕事を取れないと痛感し、30歳で営業の世界へと飛び込むことに。
大手建築メーカーにいったん腰掛のつもりで就職。
現在、その建築メーカーは大きく成長し業界ではトップになっている。
自分の希望で営業職に・・・
営業マンとして、ストレスで10円禿げを作りながらも必死で飛び込み営業をする。
ドアを閉められたり、犬に噛み付かれたり、門前払いをされたりすることもよくあった。
一年目の営業マンとしての仕事は非常につらく、元技術屋で世の中のこともよく知らない、うぶな私には荷が重過ぎた。
しんどかった。
また挫折しそうになる。

しかし・・・
もともと営業マンとしての能力があった?のか、苦労の甲斐があって2年目からトップセールスとなる。自分でも信じられなかった。
営業未経験のこの私が・・・?
人間やればできるものだ。いろんな能力が開花する。


その後も10年以上にわたって常に安定したトップセールスの座をキープする。(19年間の営業実績は245棟・1141戸・合計100億以上の受注)

この頃から営業セールスを長くやっていて、顧客のことを顧みず、仕事を取ることだけに専念する営業マンの多いことに疑問を持つ。
営業マンとしての活動は、契約を迫らない営業ポリシーを貫き通す。
通常、この業界では信じられないことだが、それでもトップセールスは維持できた。


-------営業マンは契約という言葉が好きだ。住宅の営業マンなどは顧客に対して「契約」の連発だ。提案書を出せば、必ずクロージングといって契約を迫ってくる。そうやって顧客は急がされ、心理的プレッシャーを受けながら最後には契約書にはんこを押してしまう。営業マンは熱心さ、人間関係という武器を使うのだ。--------

私は方針を変えた。顧客自ら納得の上で「契約をしなければいけないね。」といわせる技術を身に付けた。だから後半10年間は建築費を値引き?させられたことはほとんどない。
もし仕事を取るだけの営業に徹し、「建てたらさようなら」の営業スタイルでやればまだまだ仕事は取れただろう。
でもそんなことは空しい。営業とは顧客が満足感を得、顧客から感謝されることにある。

この頃、仕事での必要に迫られ、宅地建物取引主任者を取得する。
もう37歳になっていた。
受注活動だけではなく、組織体の攻略にも莫大な時間を費やし、企業間の関係を作った。
今現在、この建築メーカーにとって、その組織はなくてはならない存在となり、組織ルートは建築メーカーが今も踏襲している。
自慢になるが、私がいなければここまでの関係はできなかったと思う。

10年間営業という仕事を続けてきたが、仕事に対しての評価が少ないことに不満を持ち、退社を決めた。
もうひとつ言わせてもらえば、組織が大嫌いだった。
だから役職も拒否した。


平成5年

半年間退社を保留され、上司からの依頼で店内特約店制度による営業店を開設する。41歳のときである。
有限会社セル企画コンサルタント設立
仕事の内容は今までと同じで、アパート、マンションの受注活動だ。
私は今まで以上の数字を上げていった。
当然、サラリーマンの何倍かの収入を得、サラリーマン時代より余裕を持って次のやりたいことをやれるようになった。

建築することに慣れた私はその後、建築と不動産は一体であることを認識する。
建築から不動産実務を実践しながら学んでいった。
建築から不動産へ
不動産を抜きにして建築は語れない。


平成12年

ピンク本で有名な神田昌典著「あなたの会社が90日で儲かる」を読み
感銘を受け、顧客獲得実践会に入会する。
ダイレクトレスポンスマーケティングを勉強する。
試験的に、お好み焼き屋の経営コンサルティングを無料で引き受け、一年で売り上げを2倍アップさせた。これは本物だと感じた!


今一度、人生を振り返り、自分のやってきたこと、体験してきたこと、知識やノウハウを、欲している人に情報公開する必要がいつか、あると思っていた。実際、そのような年齢にもなってきていた。知らぬ間に?50歳近くになっていた。とほほ・・・


平成15年

その大手建築メーカーの店内特約店を閉め、建築、不動産に精通した不動産コンサルティング会社を立ち上げる。

長年の経験から、オーナーの一番の悩みである空室問題を取り上げた小冊子『あなたのアパートの空室を30日で埋める秘策』を出版する。
神田流マーケティングを応用した空室対策コンサルティングを開始する。
不動産投資セミナーを開催する。


平成16年 日本初の空室対策マニュアルが完成する。
インターネット空室対策実践講座を開講。
同時にHP「空室対策110番」を開設し  
全国の空室で困っている大家さんやこれからアパートを考えている方の相談に乗っている。
あとがき

デメリットやリスクを言えない仕事はやるべきではないと思う。
消費者に本当のことを伝え、教えることが本来のものを売る姿勢ではないかと考えている。消費者もそれを望んでいるはずだ。


空室対策アドバイザー
竹末治生

生年月日  1952年2月
趣 味   スキー、ゴルフ、読書
出 身   広島県広島市